チョコミントにオシャレ感はいらない
ブログテーマに関して、早くも枯れ井戸のようにアイデアがすっかり枯渇した僕は、ガニ股でふんぞり返りパンツのゴムとおへそが露わになるほどだらしない体勢で、けだるい顔で白目を剥きハナクソをほじりながらため息をつくという生きているか死んでいるか分からない表情で開き直り、はてなブログ様の仏の如き慈愛にみち溢れた救済措置とも言えるテーマの提供に、いとも簡単にプライドを捨て去り何一つ抵抗せずに奴隷のように全てを受け入れるとかなんとかそんな感じでブログを書こうと。そういう事なのである。(約250文字ゲット!)
と、いうわけで
今年の夏はチョコミントが流行っているらしい。コンビニをよく利用するが、確かにどの店舗でもお菓子コーナーでチョコミントを推している。しかも種類が豊富で、新商品もさることながら、定番のお菓子に関してもチョコミントバージョンが多数発売されているのだ。
しかしこの現象を目の当たりにして僕がまず考えたことは、
そもそも好き嫌いが別れるあの味に流行りもクソもあるのか
ということである。
チョコミントはこの記事によると昭和49年、実に44年前(2018年現在)に日本に上陸している。
そこそこの歴史があるにも関わらず、なぜ今なのか。これだけ長い間市場に存在しながらも、日の目をみずにひっそりと生きながらえてきたチョコミントが、今さら爆発的に売れるとは思えない。
大体において、段々とチョコミントを好きになってきたなどと言う人をあまり見たことがない。
好きな人はずっと好き、嫌いな人はずっと嫌いなのだ。
となると、最近のチョコミントブームはいったい何なのか?
ここで僕の推論を発表しようと思う。
これだ
ワンランク上のオシャレスイーツに格上げ!メーカーの陰謀論
このボンクラは何を言い出すのかとお思いであろうが、寝転んで横目でも構わないので、気が向いたら読み進めて欲しい。(お願いします☆)
例にあげるのが『パクチー』だ。
パクチーはただの食材のくせに、トークテーマにしばしば挙げられているのをメディアで見かける。
「わたしパクチー大好き〜」
と喋っているとき、その文言が醸し出すオシャレドヤ感を感じずにはいられない。
好き嫌いが顕著に表れるクセの強い食べ物を食べこなしているワタシを見て。
異国の食文化を抵抗なく受け入れる価値観を持った新人類とも言えるワタシを見て。
と暗にアピールしている風に思えてならない。
また、
「わたしパクチー苦手〜」
と否定している時に醸し出すオシャレドヤ感も見逃してはいけない。
NOとハッキリ言える欧米的な主張ができるワタシを見て。
嫌いと言ってしまわずに苦手という柔らかい表現を使いこなすワタシを見て。
と言っているように思えてならない。
自覚したオシャレが行き着く先は、単なる優越感でしかない。
パクチーは何なのか。なぜパクチーだけなのか。パクチーの是非を論ずることに、いったい全体何の価値があるのか。別にパクチーが悪いと言うのではない。パクチーはただの食いモンであり、好きか嫌いか、それ以上でもそれ以下でもないのだ。ペラついた香草に必要以上のステータスを求めてはいけない。
パクチーパクチー言ってオシャレぶっている奴には、口いっぱいにセロリを放りこんでマヨネーズ無しで食わせてやることに決めた。
いや、セロリを放りこんではいけない。
しかしながらチョコミントに関しても、メーカーがパクチーのようなオシャレフードに格上げしようとしているのではないだろうか。
「わたしチョコミント大好き〜」
はいオシャレ。
「わたしチョコミント苦手〜」
はいオシャレ。
やめてくれたまへ。
ここで言っておかなければいけないのが、かくいう僕も何を隠そう『チョコミン党』の党員なのである。
僕の中でチョコミントは永久に不滅であるが、今まで通り、人知れずひっそりと楽しみたいのだ。目立った派手さも、オシャレ感もいらない。
少数派で構わない。歯みがき粉と揶揄されても構わない。チョコの甘さとミントの爽やかさの意外なマッチング。チョコチップのなんとも言えない食感と、いかにも体に悪そうな毒々しい色。
相反するものが引き起こす化学変化が魅力的なのだ。
太陽と月が織りなす皆既日食。
ダウンジャケットとホットパンツのコーディネート。
かわばたに対するどうちん。
半端な夢の一欠片が。
不意に誰かを傷つけていく。
……ああ、食べたくなってきた。
サーティワンとスーパーカップさえあれば………あとは何もいらない………
と言いつつも、ホントは気になっているのですよ僕は。チョコミントの新商品を。